『ベースボール労働移民 メジャーリーグから「野球不毛の地」まで』

 

ベースボール労働移民 ---メジャーリーグから「野球不毛の地」まで (河出ブックス)

ベースボール労働移民 ---メジャーリーグから「野球不毛の地」まで (河出ブックス)

 

 

・文章が読み下しづらい…

・ 「労働」としてのプロスポーツを考える

キューバは?

 

プロ野球というものが、主として選手個人や球団、あるいはそれに関わる人々や団体の「物語」として消費されているというのは、「俺は今日◎◎が勝ちゃそれでいいんだ」というタイプのファンでない限り、自覚の有無はあれど野球ファンに共通するものなのではなかろうかと思います。僕自身、連綿と続くある種のサーガだと捉え、その上で試合を観たり日々の報道に一喜一憂したり、このようにノンフィクションや自伝を読んでエンジョイしております。

さてそこへいって本書ですが、そのような野球ファンには向かない本である、と言わざるを得ません。この本にあるのは、どこまでいっても「プロスポーツ」としての「野球」という業界で働く、「労働者」としての野球選手の話であるからです。

本書は、近代とともに興ったスポーツという文化事象のうちアメリカ発祥の野球について、それが資本と結びつくかたちでグローバルな拡大を遂げ、その結果として、近代スポーツが発展過程において築いてきたプロフェッショナルとアマチュアという境界を曖昧にしつつあることを、資本との結びつきを強めたプロリーグの世界各地での勃興と、それに伴って拡大する既存プロリーグによる人材獲得網の相互ネットワーク=ベースボール・レジームの周縁で起こっているスポーツ労働移民の分析から示したものである。 

(「おわりに」)

自分で引用しながらこれが1文であることにびっくりしました。長ぇよ。どこにどの修飾がかかってんだ、これ。というのもこの本、もともとは著者の博士学位論文として提出されたものに加筆修正して作られているそうなんですね(「あとがき」より)。なので、普段読みつけないタイプの文章が延々と続いており、論文的な文体に不慣れな身としてはどうしても読みくだしづらかったのです。むろん、それはそのまま悪文という意味ではありません。いち読者を楽しませるという目的を持った文章と、学術的な目的を持った文章では構造が違うのは当然のこと。これは娯楽のための本ではなく、資料として考えたほうがよろしいタイプの本だということに過ぎません。

ですので、はっきり言ってこの本に書かれた内容を100%理解できている自信はございません。ございませんが、細かいことを完全に無視してものすごくざっくり言うと、「いまや、アメリカMLBを頂点とした野球の人材育成・獲得網が世界中に張り巡らされるようになっている(=グローバル化の波)。その仕組はどのようにしてできたのか? それはそれぞれの地域にどのような影響を相互にもたらすのか? その中で労働者たる野球選手はどのように移動(=移民)しているのか?」ということを、各地の事例から読み解いていく、ということだと僕は認識しております。まぁ、「細かいことを完全に無視する」とか、学術論文に対して絶対やっちゃいけないことだろ、と思いますが。一般書として発売されてるんですから、ご勘弁ください。

ことのほか読みづらかったのが、本書の目的や背景を説明する第一章なのですが、それを過ぎると「ドミニカ」「メキシコ」「イスラエル」「ジンバブエ」「日本・韓国・中国」と、各地の事情にスポットを当てた構成になるので、俄然面白くなってきます。ことに、ドミニカ・メキシコというアメリカと地理的距離の近い2国がどのような自国の野球の歴史を持ち、そしてそれがMLBと関係性をつくったことによって変化を余儀なくされていったのかがよくわかる。ドミニカ章においては、カリブ地域とかつてアメリカに存在したカラーバリアとニグロリーグ(つまりMLBでは白人のみしかプレーできないため、有色人種だけで構成されるリーグが存在したこと)との関係や、ときおり日本の野球報道で出てくる「カープアカデミー」のようなアカデミー制が現地においてどのような功罪を果たしているのか、がわかるあたり、ノンフィクションとしての面白さがあります。あるいは、メキシコ章における「グローカリゼーション」という指摘などは、まさに野球に限らずさまざまな分野において起きていることと同じであり、そうした視点から野球を再び見てみるのは有意義なように感ぜられました。

野球そのものはアメリカ生まれのスポーツであり、それを受容することにはアメリカ化の側面が当然あるわけだが、一方ではメキシコ人たちは野球を通じて自らのローカリティを再活性化させている。メキシコで独自の発展を遂げた野球の歴史や、メキシコ人たちが「我々流」だと認識している長打狙いの打撃スタイル、無精髭や袖を切り落としたアンダーシャツなどの荒々しい風貌に価値が置かれる「マチスモ」と呼ばれるメキシコ人の嗜好などが「創られた伝統」となって、ローカリティ形成のための装置として機能しているのである。(P79)

一方で、「『プロ野球選手』というバケーション」と題されたイスラエル章は最も残酷なように思えます。 この章はほかに比べてフィールドワークの直截的な反映が多く、実際にイスラエルリーグに在籍した各国の選手たちへの聞き取りの事例が並んでいるのです。イスラエルにまで来てプレーする人々にはそれはもうさまざまな背景や思惑があるのであろう、と推察されますが、この本の最大の特徴である「容赦の無さ」のようなものが最も発揮されている章であるといえましょう。つまり前述のように、物語として野球を捉え、そこにある種のロマンティシズムを夢見るというような感傷の一切を剥ぎ取り、労働と経済としての野球の話のみがここにはあるからです。野球不毛の地であり、結局興行が立ちゆかず1年で休止せざるを得なかったイスラエルリーグで、生活の糧を得ようとするラティーノたち・「プロ野球選手」という自己実現を果たそうとする先進国の選手たちを、「低賃金の季節労働者」として扱い、「スポーツ労働移民」の新たな枠組みを考察・設定する。それは、どうしたって野球にドラマを求めてしまう身からすれば、ひどくドライなように見える。しかしそれに憤るのも間違っているとは思います。こうした研究が、野球の発展のためには必要なのであろうとも思うからです。

正直申せば、読んでいて心地よい本ではありませんでした。ですが、世界の「野球網」とでもいうべきシステムが確立された中で、日本球界はそれにどう対応していくべきなのか、もっと考えないといけないはずなのにそうはなっていないんだろうなぁ、ということにあらためて気付かされたという点で、良い本だったと思います。「田澤ルール」や大谷翔平選手の入団時の大騒ぎはありましたが、今後そういった、学卒即MLBという選手はもっと増えてくるのではないか、という予感も強まりました。

一点気になったのは、前掲の通りの章構成なので、本書ではキューバについてほぼ触れられていないことです。アメリカ-キューバ間はほかの中南米地域とは違った政治的・歴史的経緯があるので、著者の述べる「ベースボール・レジーム」の中には組み込まれていないのではないでしょうか。そういう意味では特異な発展を遂げている(かもしれない)彼の国についても、この切り口で読んでみたいなと思った次第です。そしてグリエルとはなんだったのかを考えたいです……。

石井一久『ゆるキャラのすすめ。』

 

ゆるキャラのすすめ。

ゆるキャラのすすめ。

 

・いうほどゆるくない、冷徹な人

・『自律のすすめ。』の間違いではなかろうか

・ほんとによく22年も球界にいられたな(精神的な意味で)

 

「野球よりサッカーが好き」「FAしたのは友達を増やしたかったから」「なんか練習したら上手くなっちゃって」「引退セレモニーって間延びするじゃないですか、だからセグウェイに乗って回ろうと思って」。2013年シーズンでの引退後、吉本興業契約社員として入社したことも話題になったり、その結果なのかバラエティ番組への出演がたいへんに増強された、元ヤクルト・西武・MLB(雑なまとめ)の石井一久さん。現役時代からそのキャラクターは野球ファンの間では知られたところだったことと推察しますが、この一年あまりでこうした「ユルい」キャラクターイメージのさらなる流布がなされているように思われます。そのタイミングでのこのタイトルの書籍ですから、吉本興業は機を見るに敏だなぁ石井さんもさすがイチロー選手に「この人は芸能界の人に近いんですよ」と言われた人物だけのことはあるなぁと思った次第です(ヨシモトブックスからの発売でないのでそこは特に関係ないのかもしれませんが)。

しかし一読してみてとにかく感じるのは、この人は驚くくらい「自分をどう操縦するか」をよく熟知し把握している、という点です。そういう意味においてはまったくゆるくない。というか、だから他人になんと思われてもわりとどうでもいい。まえがきでは、自分で自分がゆるいとは特に思っていなかった、と書いているのですが、読み進めるとこの一文が出てきます。

服装のせいでゆるそうに見える(もっと言ってしまうと、頭が悪そうに見える)なら、周囲にはそう思わせておくほうが、自分がやりやすかったりするものだから。(P028)

正直申し上げてこの括弧書きはかなり踏み込んだことを言っているのではなかろうか。人を形容して「ゆるい」と言うとき、古い言葉でいえばどこか「昼行灯」のようなニュアンスがつきまとう。まぁ日米通算182勝している時点で石井さんが昼行灯なわけはないのですが、思った以上にこの人は冷徹に思われます。それを凝縮して示しているのが第二章。そのタイトルは、「“オトコ気”は要らない。」です。

僕は、「気合い」だの「根性」だのという言葉を並べ立てて、実際は無理や無茶を強いるオトコ気を押し付けてくる人のことを信用しないし、オトコ気至上主義的なムードに搦め捕られて疲弊してしまっている人は、とてもかわいそうだなと思う。(P055)

 

 僕は体育会的な暑苦しさが苦手だ。「気合いだ!」「根性だ!」とまず精神論から入ってくる感じも性に合わないが、“男の友情シアター”みたいな、爽やかなようでウェットな仲間内のやりとりも、どこか付いていけないところがある。具体的には、挨拶をするときに握手をしたり、久しぶりに会った相手とまず抱き合ったり……みたいなヤツだ。(中略)

勢いとか決まり切った挨拶で仲間意識を確認し合うような、一見清々しいけど、案外排他的でベタベタした感じの挨拶なんて、僕は必要ないと感じている。(P060〜062)

「一見清々しいけど、案外排他的でベタベタした感じ」!「一見清々しいけど、案外排他的でベタベタした感じ」!あんたよく22年間もプロ野球界に居られたな!と、感嘆のあまり思わず二度繰り返させていただきました。石井さんが「体育会的な暑苦しさが苦手」なのはまったく意外ではないですが、ここまで言い切る人だとは思っていなかった。要は「それ、ほんとに意味あるの?」ということですよね。 この章もそうなのですが、とにかく本書では一貫して「休むときはきちんと休む、それが長期的なパフォーマンスにつながる」「仕事に対する姿勢は人それぞれ(野心があったほうがうまくいく人もいる)」「二番手、三番手が性に合う人もいる(=人には人の器がある)」ということが繰り返されます。ここから読み取れることはただひとつ、「自分がどういう人間であるかを自分でわかっているべき」、つまるところ「自律こそが最も重要だ」という考えです。これは裏返せば、「だから、他人に自分のやり方を強要するべきではない」ともいえる。これは、黒田博樹投手に関する項で、明確に言葉にされています。

(黒田投手は)毎試合毎試合、「これが最後の登板になっても構わない!」と覚悟を決めてからマウンドに上がるのだそう。改めて書き起こしてみると、僕とはあまりにもスタンスが違うので、ちょっと驚いている。(中略)思うに、黒田投手はギリギリまで自分を追い込まないと力を発揮できないことを自覚しているのだろう。反対に僕は、自分のペースで自由にやらせてもらえないと力を発揮できないタイプだ。結局、どちらも自分のことがよくわかっているという点では同じなのかもしれない。人それぞれ性格が違うのだから、考え方ややり方も違って当然。結果を出せるのであれば、そのためのアプローチは人により千差万別でも何ら問題はないのだ。(P105〜106)

うん、やっぱ全然ゆるくない(黒田投手は黒田投手で別の意味でゆるくなさすぎ)。この人はどこまでも「自分は自分、他人は他人」で、「自分の足で立っている人」が好きなのだと思わされます。本書のなかでわりと字数を割いている自身の妻である木佐彩子さん(元フジ)についても、

僕がいなくても、ウチの奥さんはひとりでしっかり稼いで、生きていける人。(P093)

と記述しています。古い話を蒸し返しますと、かつて熱愛が報じられた(そして野村沙知代女史に横槍を入れられた)神田うのさんも自分で稼いで生きていける人でしょうから、木佐さんとはタイプが違うように見えて、基準はブレてないのでしょう。

家庭といえば、本筋とはあまり関係ないですが、家で食べる料理についてのくだりで、

 プロ野球選手の奥さんの中には、家庭で夫に供する料理に凝りまくって、品数たっぷりの食卓を用意する人もいるようだけど、僕はそれだとかえって疲れてしまう。たまに、ブログとかでそういう料理の写真を見たりすると「もはや家庭料理じゃないな」なんて、ちょっと怯むような気分になる。毎食毎食、それを用意する奥さんも大変だろうけど、毎食毎食、それを平らげなきゃいけないダンナも大変だろうなぁ……。(P149)

どうしても咄嗟に広島カープ前田健太夫妻のことを思い出してしまうのはもう仕方のないことだと、自分で自分を許す気持ちになりました。そうしたスタイルもまた、それはそれでひとつの自律の形なのかもしれません。

永井良和・橋爪紳也『南海ホークスがあったころ』

 

 

 

・非野球ファンでも文化史に興味があれば絶対おもしろい野球文化史の大著

・「この野球本も読みたい」の連続、資料性の高さ

・消えた球団を愛する人々の悲哀とおかしみ

 

自分自身の趣味嗜好からいくと、「こういう野球本が読みたかった」と思わせてくれる、素晴らしき1冊でした。まず何しろ文庫本にして400ページ弱の大書ですので(お値段950円!)、読み応えは抜群です。ただし、付箋を貼りまくってみたものの、その全部を紹介することはとても無理。自分の記憶に強く残ったものを、ここには記しておきます。

日本プロ野球黎明期から存在し、88年に消滅した大阪の球団「南海ホークス」。同球団を幼少時より愛し、その愛にいまだ囚われたままでいる著者2名による、南海ホークスの歴史を辿る書、といって差し支えないと思われますが、サブタイトルにある通り、これは南海ホークスを中心とした戦後日本の文化史研究であり、同時にメディア史でもあります。著者の2人は、建築史家と社会学者。この取り合わせの絶妙なところは、建築史家の方が入ることで、関西圏の都市開発の歴史がきちんと織り込まれているところではないでしょうか。

日本の野球の歴史は日本の産業の歴史である、と言われることがあります。要は、どういった産業が伸びていたのかが、どの業種の企業が球団を所有していたかに反映される、という話です。まさにここ10年ほどで楽天が参入し、DeNAが参入したのが、いまの日本の産業でITが主流になっていることの表れであるように。

それでいうと、この南海ホークスが伸び盛りだった時代というのは、「新聞」と「電鉄」という“メディア”が一大事業になっていた頃であった。言わずもがな読売新聞が所有するジャイアンツ、毎日新聞が所有する毎日オリオンズ、そして南海電鉄のホークス、阪急電鉄ブレーブス阪神電鉄阪神タイガース近畿日本鉄道バファローズ。この本の中では、ホークスの球場の変遷を中心に、4球団の本拠地球場がどのようにつくられ、それを中心にどういった街づくりが行われたかが詳細に語られます(甲子園球場はいささか例外ですが)。多くの人を収容する野球場をどこに設置するかは、鉄道会社にとってはそのまま、どういった人の流れを沿線に作りたいのか、経営方針と関わってくる。都市の発展と野球という文化の発展がどのように重なり合っていたかーーむろんこれだけがこの本における主眼ではないものの、あまりまとまった形で語られることのない分野のように思われ、とても興味深いものでした。

「あまりまとまった形で語られることがない」という話でいうと、そもそもこれほど野球という文化の発展の歴史について、網羅的に綴った本というのは決して多くはないはずです。前述した球場の歴史のみならず、応援スタイルの歴史、グッズの歴史、むろんのこと球団経営の歴史、そして野球本の歴史まで。アカデミックな著に欠かせないものとして、おそろしいほどに充実した注釈がほぼ全ページにわたってつけられており、この注釈に登場する野球本の数がすさまじい。平出隆『ベースボールの詩学』のような有名書はもちろんのこと、『後楽園の25年』『半世紀を迎えた栄光の神宮球場』『輸送奉仕の五十年』といった社史、あるいは当時の南海電鉄社内報まで、渉猟されている資料の量と幅がものすごいのです。およそ「野球」の棚に分類されるであろう書籍としては異色中の異色でしょう。もちろん、いち選手やいち球団に関する書籍でも「すごく取材しているなぁ」と感心するものはたくさんありますが、アカデミズムの世界で生きる方々がガチンコでやるとこれはこれでエゲツねぇな、と思わされる次第です。この1冊を読み通す間に、Amazonウィッシュリストがどんどん膨れ上がってしまいました。

それと、もっとも個人的に目を開かされたのは、先述した「野球の本の歴史」です。なぜ野球選手や指導者の本がビジネス書として上梓されるケースが後を絶たないのか? その源流は、南海ホークスが残したレジェンド・野村克也氏にある、と。引退後の野村氏が出した2冊の本を並べて、それらがいかに従来の野球選手・監督本とはかけ離れた“戦略”を記した本であったかを述べ、「ビジネス書としての野球論」(P256)が氏からはじまったのだ、と述べられるのです。そりゃ「野村克也」の棚ができそうな勢いで著書が出続けるよなぁ、と納得いたしました。

 

「Number」858号(2014年8月21日号)

 

Number(ナンバー)858号 甲子園熱球白書「真夏の絆」

Number(ナンバー)858号 甲子園熱球白書「真夏の絆」

 

・菅野投手は父親も原貢さんの教え子だったのか!

馬淵史郎高校野球界のデストロイヤーかタイガージェットシンか」

・蔦監督(池田高校)とご夫人の顔が似すぎ

 

毎夏好例「Number」の高校野球特集号です。サイドバーに書いております通り何しろ自分はにわか者ですし、基本的にプロ野球のほうに注目してる人間ですので、高校野球は正直いってさほど詳しくありません。ですので、新鮮味を持って読みました。

全体の感想でいうと、冒頭の桑田真澄さんと松坂大輔選手の対談からかなり読みどころがある、良い特集号です。共に夏を制覇し、高校野球の歴史に深く足跡を残した2人ですから、おもしろくないはずがないのですが、それにしても

桑田 大輔は、甲子園で神様が降りてきたなとか、神懸かってるなと感じたことはない? 

という質問を皮切りにしばらく「野球の神様」の話が続き、

桑田 ちなみに、大輔にとっての野球の神様って、男と女、どっち?(笑)

(中略)

桑田 試合中、マウンドの僕のところへ神様がスポーンと降りてきて、『次はカーブ行きなさい』って。

(中略)

松坂 そういえば僕も、3回戦の星稜戦だったかな。マウンドの上でブツブツ言ってたらしいんです。その場面、ワンアウト二、三塁で5、6番を連続三振に打ちとったんですけど、あのときは『アウトコースの低めまっすぐ』とか、ブツブツ言ってたのかもしれません。今思えば、もしかしたら神様が降りてきたのかなって感覚はありますね。

桑田 神様、ちゃんと降りてきてるじゃない。

松坂 でも、会話はしてません(笑)。 

グラウンドでアミュレットを握りしめるPL学園出身者であり、卒業後も熱心な信仰者でもあるとされる桑田さんが「神様」についてちょっとしつこいくらい松坂選手に聞き続けるというのは、なかなか興味深いものがあります。対する松坂選手の、桑田さんの熱心さに対する半笑い感も対照的で、実にいいです。

そのあとには現横浜DeNAベイスターズ後藤武敏選手をはじめとする松坂選手の横浜高校時代の同級生たちのルポや、07年夏の決勝で佐賀北高校に敗れた広陵高校のバッテリー・野村祐輔選手(広島)と小林誠司選手(巨人)のバッテリー秘話、大谷翔平選手(日ハム)の夏の記憶ルポなどが並びます。そして誌面中程で、「追悼証言録 原貢の教えを継ぐ者たち。」という企画が登場します(執筆者は「週刊文春」の連載「野球の言葉学」をやってらっしゃる鷲田康さんでした)。

今年の5月に亡くなった東海大相模高・東海大学の野球部監督であり、アマチュア球界のドンであり、巨人・原辰徳監督の実父である原貢氏の追悼企画なわけですけれども、原監督をはじめ彼の薫陶を受けた人物たちが登場します。そのなかで

「あの子は最初、内野手をやりたがっていた。でもお前さんはピッチャーしか出来ないから、ピッチャーに専念しなさいと言ったんだ」

 巨人の投手で実孫の菅野智之に関して、貢がこんな思い出話をしていたことがある。

「とにかく身体的な特長や、能力を見抜く力は凄かったです」

 こう語るのは菅野の父で、自身も東海大相模OBの隆志だ。 

 え!菅野選手の父親も東海大相模OBなの!と、それを知らなかったのでたいへん驚きました。お父上は高校時代は不動のレギュラーというわけではなかったようですが(検索情報による)、何か見込まれて娘さんと結婚することと相成ったのでしょうか。恋愛結婚なのかどうかもわかりませんが、血が濃いなぁ、と思います。

それとその後に続くページの、智弁和歌山高嶋仁監督×明徳義塾馬淵史郎監督という、甲子園の名将たちによる対談も、わずか2ページと短いながら、楽しく読みました。92年星稜高校戦の松井秀喜選手5打席連続敬遠によって一躍(悪)名を馳せたとき、馬淵監督がまだ監督2年目だったという事実に驚きます。

高嶋 (略)思えば甲子園で初めて当たった2002年夏の決勝の後、全日本高校選抜を連れて一緒にアメリカへ行きましたね。あの時からやなあ、本当に親しくなったのは。

馬淵 「アメリカでの過ごし方はな、馬淵、こうやぞ」と教えていただきました。

高嶋 そんなこと言うたことないで(笑)。

馬淵 しかし私のような「高校野球界のデストロイヤーかタイガージェットシンか」と言われている人間と親しくしていただいて。 

個人的な趣味ですが、西日本の喋り方をするおじいさんたちの会話というのが好きですし、親しさの下に探り合いが透けて見えるような老練な軽妙さが感ぜられるのがたいへん素晴らしい。あえて欲を言えば、これまでの経験や当時の思い出話が中心になっておりましたから、今の高校野球界をどう見ているのかというような、ベテラン老監督ならではの俯瞰的な話ももう少し読みたかったな、と思いました。それはもしかしたら現場に立たれている方がやることではないし、当事者たちはそれどころではない、ということなのかもしれませんが、やはり現場にいらっしゃる方だからこそ見えるものというのもあるのではないかなぁ、という外野の勝手な期待でございます。

この対談企画のあとに来る「巡礼ノンフィクション やまびこ打線の母をたずねて。」は、80年前後に甲子園を「やまびこ打線」でわかせた徳島・池田高校の名将・蔦文也監督の奥様にスポットを当てた企画。内容もさることながら、文章に添えられた奥様・蔦キミ子さんと蔦監督の写真の顔がびっくりするくらい似てるんです。キャプションも「91歳になったキミ子さん。意志の強そうな口元が往時の蔦監督を偲ばせる」となっています。このフレーズは普通、実子などの血縁者に対して使うもののはず。夫婦二人三脚でやってきた、キミ子さんなくして蔦監督なし、という記事の趣旨を、その「顔」がすでに保証しているように見えるのでした。

「プロ野球ai」2014年9月号

 

プロ野球ai 2014年9月号

プロ野球ai 2014年9月号

 

・堂林選手の「俺」キャラ

・読者参加企画が普通に勉強になる

・ランキング大波乱(主にカープで)

 

野球雑誌の中で最も愛読しているといってもいい「プロ野球ai」、9月号を読みました。最近の「ai」だと5月号の「イチオシ選手対談特集」における斎藤佑樹選手×乾真大選手対談が素晴らしい読みどころだったので、以降自分の「ai」への期待指数は段違いに上昇しております。

 

プロ野球ai5月号(2014)

プロ野球ai5月号(2014)

 

 

9月号は「もっともっとプロ野球にワクワクしよう」という特集で、巻頭から大瀬良大地選手インタビュー&鈴木誠也選手×堂林翔太選手対談と、なるほどカープ祭りです(間に大谷翔平選手のレポート記事もありますが)。

広島カープ期待の星である鈴木選手は堂林選手の3歳年下ということで、堂林選手が一人称「俺」からの「おまえ」はなかなかインパクトがありました。というか、堂林選手本人が「ai」に登場するのは少し久しぶりなのです。ずっと「ai」名物「いま光っているヒーローたち」つまり読者による人気投票で上位3位につけている同選手ですが、今年は開幕後から怪我等もあってなかなか一軍で活躍しておりませんでしたから、ここ2〜3号は「いま堂林選手は」というようなファームレポート記事などが中心だったのです。それでも必ず表紙には名前が載せてくる「ai」の執念には心打たれるばかりでした。

さてそのやや幼げな顔立ちも相まってか「プリンス」などと呼ばれている堂林選手、鈴木選手との対談ではなかなかのオラオラ感。片付けが苦手という鈴木選手に対して、

「僕、ファンレターは箱にまとめてますよ。手紙はそれ用の箱を作って、とにかく片付けるんだよ。おまえ、わかるか?」

と片付け道を説く堂林先輩。1日他の職業につけるなら何をしたい?という質問に「総理大臣」と小学生のような回答をした鈴木選手に対して

「鈴木総理大臣のもとでは暮らせないな。おまえが総理大臣になったら俺、アメリカに行く。」

と突き放す堂林先輩。あまりこれまで見えなかった俺様感が出ていて、これはこれで…これはこれで何なのかはわかりませんが、アリなんじゃないかしらん、と思います。いい子キャラもいいですが、ヤンチャかわいい系もなかなかよろしいのではないでしょうか。

それから誌面中盤に、「プロ野球ai野球塾 素朴な疑問に答えます!」という真面目な野球企画があって、これが予想以上に真面目で、「ai」どうしちゃったの、と思わなくもないですが、普通に勉強になりました。西武・十亀剣選手とソフトバンクホークス内川聖一選手が中心に回答しております。内容としては、

「マウンドに内野手と投手が集まっているとき、外野手はどんなことを考えているんですか?」

「ランナーに出たとき、ファーストコーチや一塁手とどんな会話をしているんですか?」

「守備交代をしたその打席で、交代した選手のところに打球が飛んでいくのはなんで?」

等々、確かにちょっと気になるけど専門誌や試合後のインタビューでわざわざ聞くことでないかなぁ、と記者や編集者なら思いとどまるであろう疑問が多く詰まっていて、且つその全てが女性ファッション誌の洋服のキャプションかと思うくらいの級数で羅列されているので、ものすごく目は疲れますが全部読み通す価値があるのではないかと。というか、基本的にどの回答も他の選手に比べて内川選手の文章量が二倍三倍程度あって、本当にこの方は引退してもすぐ食べていけるだろうなぁと思わされます。解説もさることながら、これだけ言葉を尽くして細かいことをきちんと説明する能力は、指導者としても重宝されそうです。

そして巻末には前述の恒例企画「いま、光っているヒーローたち」が掲載されているのですが、これが「ai」定点観測読者ならちょっと驚く波乱ぶり。ここ最近は、堂林選手と巨人・坂本勇人選手が不動のツートップで、あと一人が毎度入れ替わりつつ上位3位を占めていたのが、今月はなんと1位大瀬良大地選手、2位一岡竜司選手、3位菊池涼介選手、4位堂林選手、5位丸佳浩選手と、上位5位がすべて広島カープとなっております。以下は6位小林誠司選手、7位坂本勇人選手と巨人選手が入って、8位は九里亜蓮選手でまたカープ。9位に今宮健太選手でホークスを挟んで、10位は今村猛選手でまたまたカープ。実にトップ10のうち7人が広島カープという、カープ女子の実在を感じさせる結果になっておりました。これを見るにつけ、一岡選手は本当にカープに移って陽の目を浴びてよかったね……と思います(巨人に残っていたら残っていたで、今年の苦しい投手事情などを考えると一軍登板重ねていたかもしれませんが)。

それと、個人的に「ai」の好きな企画で、選手ひとりが自分の球団の主力選手はどういうキャラクターかを紹介するというものがありまして、これが今回オリックス・坂口智隆選手によるオリックス選手紹介でした。ページ数は2ページと少ないながら、いろいろとおもしろいポイントがあり、なかでも金子千尋投手に関する紹介で「金子選手はくだらないイタズラが好き」というのがグッと来ました。いや、もっと言うと、そもそも坂口選手が金子選手についてのコメントで全部「ネコさん」と呼んでいるのがいちばんグッと来ました……。

「ネコさんは…マイペースなスーパースターです。キレイ系ですよね」

「(ロッカールームで)ネコさんが休みの日に、たまにハサミを借りたりします」

「(イタズラの話で)ネコさんめっちゃそんなん好きなんです」

「最近はネコさんが何か持ってきたら疑いますけどね」

「かねこさん」から来てるのはわかりますけど、30歳の先輩捕まえて「ネコさん」って、坂口選手も金子選手も可愛すぎんだろ……と、日頃は金子選手を「ちーちゃん」と呼んでいる身としても、さすがにビリビリきた次第です。あと、このページの坂口選手撮りおろし写真についてた、このフキダシキャプション。

 

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なんか、もっとほかに書くことあったのでは……。

「ベースボールサミット 第2回 特集横浜DeNAベイスターズ」

 

ベースボールサミット第2回 横浜DeNAベイスターズ だからベイスターズファンはやめられない  I☆YOKOHAMA

ベースボールサミット第2回 横浜DeNAベイスターズ だからベイスターズファンはやめられない I☆YOKOHAMA

 

・2号目でDeNA特集という挑戦

・そのわりにいささか保守的な内容

・ファン座談会が一番面白い

 

スポーツ本を好んで読む自分にとって、カンゼン社は常に注目している版元です。基本的には雑誌「サッカー批評」が体現しているような、たとえば「Number」などではやれないような、プレイの裏側にある業界の問題点や政治的・経営的な問題を論じる、まさに批評的な視座を持ってスポーツを語るということをする稀有な方針があると思うからです。スポーツ界にも記者クラブ制度に似たものは存在し、基本的にポッと出の媒体は現場の取材はなかなか出来ず、一方でがっちりネタをもらうためには内部の人たちにとって耳の痛いことばかり報じることは難しい。その昔、「月刊ベイスターズ」が球団公式マガジンにもかかわらず、社会学者の山本哲士氏が連載コラムで大矢明彦監督(当時)を批判したことが当の監督の逆鱗に触れて取材拒否に遭ったという逸話を、以前「東京野球ブックフェア」で当時の編集長氏が語ってらしたが、基本的に競技の現場がそのまま取材の現場である以上、近い関係であればあるほど批判的なことは書けなくなるのは当然のことであります。そうした中で、ギリギリの線を突き続けるカンゼン社さんのお仕事は特異で素晴らしいものだと思っているのでした。

そして今年の4月、同社から「ベースボールサミット」なる雑誌が創刊されました。これは先行する「フットボールサミット」の野球版にあたり、創刊号のテーマは「田中将大ヤンキース成功への道」。

 

ベースボールサミット第1回 田中将大、ヤンキース成功への道

ベースボールサミット第1回 田中将大、ヤンキース成功への道

 

 「ついに野球について論じる雑誌が創刊された!」と嬉しく思った次第です。そして6月に出る2号目は横浜DeNAベイスターズ特集!と告知が出たとき、「これ絶対おもしろいやつじゃん!」と反射的に思いました。昨シーズン、まだ順位は1つ上げただけだけれど、動員を増やし続け、さまざまに新しい企画を打ち出し、そしてチームも中畑清監督のもと、なんとなく「いけそう」と思わせてくれるようになったのは、たかだか球団買収から2年と考えれば、偉業といっても差し支えないのではないかと僕は思っています。なぜそのようなことが可能になったのか? しかも読売ジャイアンツ阪神タイガースに比べて、弱小球団であり且つ親会社が転々としてきたこともあり、横浜ベイスターズが正面切って語られる機会はこれまでそう多くはなかった。そこを敢えて今取り上げるあたり、さすがカンゼンさん、絶対買おう、と発売を心待ちにしていたのです。

結論から言いますと、僕のその期待に応えてくれたとは言いがたい内容の一冊でした。内容は基本的に、中畑清監督や三浦大輔投手、梶谷隆幸選手、石川雄洋選手、荒波翔選手、筒香嘉智選手、金城龍彦選手、井納翔一選手、三上朋也選手、そして池田純球団社長、それから、平松政次さんや佐々木主浩さんらOBへのインタビューと、やくみつる氏や森永卓郎氏といった有名人ファンへのインタビューで構成されています。分量的には現役の選手たちのインタビューがいちばん多いでしょう。しかしそれらは、あくまで彼ら自身と野球やチームとの向き合い方について語っており、率直に言って、「別にこの雑誌じゃなくてもできるんじゃね?」という疑問が、読んでいる間、常に頭をちらついてしまうのです。

むろん、そもそもベイスターズの選手は他球団(というか巨人・阪神)に比べて露出が多くはない。なので、例えば金城選手などはなかなか読む機会がないわけで、そういう意味では貴重ですし、おもしろく読みました。ですが、それでは単にベイスターズ公式雑誌と何が違うのか。創刊号から掲げられた「野球界の論客首脳会議」という命題はどこに行ってしまったのか。

正直に申せば、最初の告知の後、書影がネット上で公開された時から少し不安に思ってはいたのです。8月に行われるスターナイトのユニフォームのイラストが表紙に大々的に配置され、右下にはスターナイトのロゴも入っている。これは球団全面協力のもとに製作されたのであろうことが容易に見て取れます。なんとなれば、タイアップなのではないか?という下衆の勘ぐりまでしたくなってしまう(多分さすがにそれはないと思いますが)。

おもしろくないわけではないです。というか、こうした特集が組まれること自体が、ベイスターズに注目が集まっているというプロ野球を取り巻く機運を象徴しているわけで、それだけでも十二分に面白みがある。ただ、田中将大投手について、師である野村克也さんや同リーグ他球団の主砲(ソフトバンクホークス内川聖一選手/西武ライオンズ・浅村栄斗選手)、かつてメジャーに挑戦した小宮山悟さんへのインタビュー、投球データ分析、アメリカでの移籍の受け止められ方などなど、多角的に分析した前号とは、随分と違ってしまっているなぁ、と思ってしまう。まことに勝手な期待を背負わせてしまっているとは自分でも承知ですが、カンゼンさんならもっと違った作り方ができたのではないのかなぁ、などと思った次第です。

清原和博『男道』

 

男道 (幻冬舎文庫)

男道 (幻冬舎文庫)

 

 

 ・ここにいるのは綺麗な清原

・桑田慕情

・溢れ出る文学臭

 

昨今SAY YESしたあの方の事件の余波によって、各所で何かと話題になっている清原さん。なんぞこの流れの中で彼の選んだ現在の道を読み解く手がかりになる話はなかろうかと読んでみたこの本は、僕のようなゲスい人間の期待には応えてくれませんでした。かわりにそこにあったのは、“綺麗な清原”の姿でした。それはあまりにも文学的で、さすがは見城徹さん率いる幻冬舎の仕事である、と感嘆させられた次第です。

清原さんの野球人生については今更ここで何か説明する必要もないでしょうから省きますし、清原さんは現役時代から引退後まで、かなりメディア露出が多いタイプの野球人ですから、彼自身の言葉でそうした苦難多き道のりについて語られることも多かった。あの番長キャラ自体がかなりの部分でメディアによって作られたものであり、本当は小心者である本人が、そのパブリックイメージとの間で懊悩していたであろうことも、野球ファンの間ではそれなりに共有された前提となっているような気がします(今回の騒動がガチだったら、さすがにキャラ云々とか言ってられなくなるでしょうけども)。

この本の中でもっとも水際立った描写がなされるのは、そうした彼の懊悩や野球生活における苦労よりも、桑田真澄さんに関するパートでした。PL学園で過ごした高校時代を語る第二章「富田林」、ドラフト事件から西武時代を描く第三章「所沢」、巨人軍入りという11年越しの夢を叶えた第四章「東京」、野球人生に幕を下ろす第五章「大阪」、そのすべてに必ず登場する盟友への思いを吐露する言葉の数々は、この本の版元は幻冬舎幻冬舎でもルチル文庫だったかしらん、と思わされるほどの慕情を湛えています。野球を始めた少年時代を振り返る第一章「岸和田」は、第二章での高校入学に引き継ぐ形で、こんな言葉で締めくくられ、そして2人のドラマは始まるのでした。

その大切な時期に、僕は一人の男と出会うことになる。野球の神様がもしいるとするなら、その出会いこそ神が僕に与えてくれた最高の贈り物だった。そしてそれはまた、僕に背負わされた最大の試練でもあった。

「一人の男」とはもちろん桑田さんのこと。以降、桑田さんに関する描写の数々がどれだけ叙情的で素晴らしいか、ちょっと長くなりますが引用していきましょう。

あれだけ練習に夢中になれたのは、やはり桑田がいたからだった。頭をちょっと傾けた独特のフォームで、黙々と走る桑田の華奢な背中を見ていると、どんなに練習してもまだ足りないという気持ちになったものだ。(第二章「富田林」) 

初めて出会った同い年の少年に、強く惹きつけられる15歳の春。この描写に「華奢な背中」という形容を入れてくるあたりが心憎い。

こんなことを文字にしたくはない。僕はあの時、桑田を憎んでいた。そして、僕に桑田を憎ませることになった、王監督を憎んだ。(第三章「所沢」) 

騒がれ、過剰に持ち上げられる自分たちを守るように、身を寄せ合った高校時代。その温かな記憶さえも引き裂かれ、男は世界を憎むようになる。

卒業式で桑田と会った時、僕は桑田と目を合わせなかった。桑田が何かを言いたそうにしているのは気付いていたけれど、何も言わせるものかと思った。(中略)卒業証書を片手に、握手させられた。桑田の手の温かさには、何も変わりがなかった。胸が痛かった。僕はまた目をそらした。(同) 

友を、そうさせた世界をいくら憎もうと、変わらないものもそこにはある。だが彼はまだ、その事実を受け入れられない。

桑田はルーキーの年に、2勝しかあげていなかった。ドラフトの問題もあったから、そのとき彼がどんな重圧を受けていたことか。わずか18歳にして、こんな場所で桑田は戦っていたのだと思った。(同) 

自らを裏切り傷つけた代償を負わされる友のことを思う。離れているからこそ、少しずつまた彼のことを考えられるようになる。

桑田に対する当時の感情を、一言で説明するのは難しい。あのドラフト会議の日から、昔のように話せなくなったのは事実だ。(中略)冗談を言い合って笑い合ったことだってある。ただ、あのドラフトのことにだけは、お互い絶対に触れようとはしなかった。 

桑田が僕に向けて発している感情に気づかなかったわけではない。僕に直接言うことはなかったが、桑田はいつも自分の気持は高校時代と変わっていないのだと告げたがっているようだった。

試合で向かい合った時は、いつも悲しいくらい男らしい真っ向勝負を挑んできた。キャッチャーのサインに首を振る。何度も、何度も首を振る。なぜ首を振っているのかは、誰に聞かなくても僕がいちばん知っていた。(中略)そして、いつも渾身の球を投げ込んできた。僕がその球を何度打ち返しても、同じだった。俺を信じなくてもいい。この球だけは俺の真実なのだと叫んでいた。

今さら蒸し返しても何がどう変わるわけでもない。(中略)桑田がどんなことを話そうと、僕はそれを受け入れるつもりだった。けれど、桑田はそのことについては触れようとしなかった。そして桑田から話が出ない限り、僕から聞くべきことは何もなかった。あのドラフトの話は、靴の中に入った小さな石のように、僕たちの間に挟まっていた。 (中略)僕がジャイアンツに入団して、離れていた桑田との距離は縮まった。けれど、その小石のせいで、2人の距離が昔みたいにゼロになることはなかった。(中略)ただ、試合で戦っている時だけは違っていた。桑田が投げ僕が打っている間だけは、完全にPL時代の桑田と清原だった。あいつがマウンドで何を考えているかは、牽制を読むのと同じように100パーセントわかった。(第四章「東京」)

失われた、あるいは壊されたふたりの絆。どちらも決して口の上手くない少年たちは、謝罪も弁解も糾弾もできないまま傷つき続けて大人になり、少しずつ親しさを取り戻していく。だがそれはあくまで表面的にであって、結局のところいくつになっても語るべき言葉を見出だせない青年たちは、その思いをボールに、グラウンドに託す。そこでは俺たちは、嘘がつけないから。そうしているときは、胸を合わせて歓喜の涙を流したあの夏に、戻ることができる。

そして共に同じ場所で戦う数年を過ごし、男はまた憧れの存在に傷つけられてその場所を去っていく。ボロボロの心身を抱え、それでも再び戦いの場に戻ろうとしていた男のもとに届いたのは、片割れがこの世界から身を引くという報せだった。片割れもまた満身創痍で、遠く離れた地で戦っていた。それが彼を奮い立たせてもいた。その男が、いなくなるという。

桑田が引退を発表したのは、2008年3月26日だった。僕は翌朝のニュースで知った。突然の引退だった。体中から力が抜けた。心に穴があいた。本当に何もする気がなくなって、欠かさず続けていたリハビリと練習に3日間も行けなかった。(第五章「大阪」) 

奪われた絆、負わされた傷跡、抱えた不信……大人になっても、大人になったからこそ分かり合う機会は失われ、ただ18.44mを挟んだ距離で、あるいは背中で言葉を叩きつけあってきた彼らを、つなげてきたのは野球だった。それすらもなくなるとき、長い長い確執の時代は幕を下ろす。

仲が良いだけが、友達ではない。お互いに傷つけ合うこともあったけれど、桑田の存在はいつも心を鼓舞してくれた。リハビリの辛さに耐えかねたとき、僕はよく桑田のことを思い出した。あいつも、この孤独に耐えているのだと思うだけで、折れそうになっていた心に熱い血が通うのを感じた。たとえ何があろうとも、桑田は何者にも代えることのできない、僕の終生の友なのだ。

ドラフトで遠く離れてしまった友との間は、長い時間をかけて少しずつ少しずつ縮まっていった。2人ともジャイアンツのユニフォームを脱いで、ようやく高校時代のように自然に話せるようになった。そういう意味では、本当に長い23年間だった。(同)

 ……と、この引用に挟んだテキスト部分だけつなげて読むと、まるでBL小説のようではないでしょうか。それも、木原音瀬さん作品のような、重たいヤツ。

ほかのさまざまなエピソードの何よりも、桑田さんとの関係に関する描写が克明で際立っているのは、おそらく清原さんの野球人生の中でその部分が最も文学的であるからだろう、と思います。

この本は、まるで小説のようです。おそらく作り手側も、そのつもりで作っているのではないでしょうか。だから、この桑田さんとの物語はとても美しいけれど、それに素直に心打たれるのは危険でもある。ここには例えば、数年後に薬物報道疑惑で取り沙汰されることになるような清原さんはいない。同時に、野球賭博疑惑をかけられたり、投げる不動産王と呼ばれた桑田さんもいない。そうしたダーティーな側面を含んでいるのが、“KKコンビ”という絆に振り回された彼らの物語なのではなかったか。とはいえ、そうとわかっていても惹きつけられるだけの魅力が、この本が描いたストーリーにはあるのでした。