『ベースボール労働移民 メジャーリーグから「野球不毛の地」まで』

 

ベースボール労働移民 ---メジャーリーグから「野球不毛の地」まで (河出ブックス)

ベースボール労働移民 ---メジャーリーグから「野球不毛の地」まで (河出ブックス)

 

 

・文章が読み下しづらい…

・ 「労働」としてのプロスポーツを考える

キューバは?

 

プロ野球というものが、主として選手個人や球団、あるいはそれに関わる人々や団体の「物語」として消費されているというのは、「俺は今日◎◎が勝ちゃそれでいいんだ」というタイプのファンでない限り、自覚の有無はあれど野球ファンに共通するものなのではなかろうかと思います。僕自身、連綿と続くある種のサーガだと捉え、その上で試合を観たり日々の報道に一喜一憂したり、このようにノンフィクションや自伝を読んでエンジョイしております。

さてそこへいって本書ですが、そのような野球ファンには向かない本である、と言わざるを得ません。この本にあるのは、どこまでいっても「プロスポーツ」としての「野球」という業界で働く、「労働者」としての野球選手の話であるからです。

本書は、近代とともに興ったスポーツという文化事象のうちアメリカ発祥の野球について、それが資本と結びつくかたちでグローバルな拡大を遂げ、その結果として、近代スポーツが発展過程において築いてきたプロフェッショナルとアマチュアという境界を曖昧にしつつあることを、資本との結びつきを強めたプロリーグの世界各地での勃興と、それに伴って拡大する既存プロリーグによる人材獲得網の相互ネットワーク=ベースボール・レジームの周縁で起こっているスポーツ労働移民の分析から示したものである。 

(「おわりに」)

自分で引用しながらこれが1文であることにびっくりしました。長ぇよ。どこにどの修飾がかかってんだ、これ。というのもこの本、もともとは著者の博士学位論文として提出されたものに加筆修正して作られているそうなんですね(「あとがき」より)。なので、普段読みつけないタイプの文章が延々と続いており、論文的な文体に不慣れな身としてはどうしても読みくだしづらかったのです。むろん、それはそのまま悪文という意味ではありません。いち読者を楽しませるという目的を持った文章と、学術的な目的を持った文章では構造が違うのは当然のこと。これは娯楽のための本ではなく、資料として考えたほうがよろしいタイプの本だということに過ぎません。

ですので、はっきり言ってこの本に書かれた内容を100%理解できている自信はございません。ございませんが、細かいことを完全に無視してものすごくざっくり言うと、「いまや、アメリカMLBを頂点とした野球の人材育成・獲得網が世界中に張り巡らされるようになっている(=グローバル化の波)。その仕組はどのようにしてできたのか? それはそれぞれの地域にどのような影響を相互にもたらすのか? その中で労働者たる野球選手はどのように移動(=移民)しているのか?」ということを、各地の事例から読み解いていく、ということだと僕は認識しております。まぁ、「細かいことを完全に無視する」とか、学術論文に対して絶対やっちゃいけないことだろ、と思いますが。一般書として発売されてるんですから、ご勘弁ください。

ことのほか読みづらかったのが、本書の目的や背景を説明する第一章なのですが、それを過ぎると「ドミニカ」「メキシコ」「イスラエル」「ジンバブエ」「日本・韓国・中国」と、各地の事情にスポットを当てた構成になるので、俄然面白くなってきます。ことに、ドミニカ・メキシコというアメリカと地理的距離の近い2国がどのような自国の野球の歴史を持ち、そしてそれがMLBと関係性をつくったことによって変化を余儀なくされていったのかがよくわかる。ドミニカ章においては、カリブ地域とかつてアメリカに存在したカラーバリアとニグロリーグ(つまりMLBでは白人のみしかプレーできないため、有色人種だけで構成されるリーグが存在したこと)との関係や、ときおり日本の野球報道で出てくる「カープアカデミー」のようなアカデミー制が現地においてどのような功罪を果たしているのか、がわかるあたり、ノンフィクションとしての面白さがあります。あるいは、メキシコ章における「グローカリゼーション」という指摘などは、まさに野球に限らずさまざまな分野において起きていることと同じであり、そうした視点から野球を再び見てみるのは有意義なように感ぜられました。

野球そのものはアメリカ生まれのスポーツであり、それを受容することにはアメリカ化の側面が当然あるわけだが、一方ではメキシコ人たちは野球を通じて自らのローカリティを再活性化させている。メキシコで独自の発展を遂げた野球の歴史や、メキシコ人たちが「我々流」だと認識している長打狙いの打撃スタイル、無精髭や袖を切り落としたアンダーシャツなどの荒々しい風貌に価値が置かれる「マチスモ」と呼ばれるメキシコ人の嗜好などが「創られた伝統」となって、ローカリティ形成のための装置として機能しているのである。(P79)

一方で、「『プロ野球選手』というバケーション」と題されたイスラエル章は最も残酷なように思えます。 この章はほかに比べてフィールドワークの直截的な反映が多く、実際にイスラエルリーグに在籍した各国の選手たちへの聞き取りの事例が並んでいるのです。イスラエルにまで来てプレーする人々にはそれはもうさまざまな背景や思惑があるのであろう、と推察されますが、この本の最大の特徴である「容赦の無さ」のようなものが最も発揮されている章であるといえましょう。つまり前述のように、物語として野球を捉え、そこにある種のロマンティシズムを夢見るというような感傷の一切を剥ぎ取り、労働と経済としての野球の話のみがここにはあるからです。野球不毛の地であり、結局興行が立ちゆかず1年で休止せざるを得なかったイスラエルリーグで、生活の糧を得ようとするラティーノたち・「プロ野球選手」という自己実現を果たそうとする先進国の選手たちを、「低賃金の季節労働者」として扱い、「スポーツ労働移民」の新たな枠組みを考察・設定する。それは、どうしたって野球にドラマを求めてしまう身からすれば、ひどくドライなように見える。しかしそれに憤るのも間違っているとは思います。こうした研究が、野球の発展のためには必要なのであろうとも思うからです。

正直申せば、読んでいて心地よい本ではありませんでした。ですが、世界の「野球網」とでもいうべきシステムが確立された中で、日本球界はそれにどう対応していくべきなのか、もっと考えないといけないはずなのにそうはなっていないんだろうなぁ、ということにあらためて気付かされたという点で、良い本だったと思います。「田澤ルール」や大谷翔平選手の入団時の大騒ぎはありましたが、今後そういった、学卒即MLBという選手はもっと増えてくるのではないか、という予感も強まりました。

一点気になったのは、前掲の通りの章構成なので、本書ではキューバについてほぼ触れられていないことです。アメリカ-キューバ間はほかの中南米地域とは違った政治的・歴史的経緯があるので、著者の述べる「ベースボール・レジーム」の中には組み込まれていないのではないでしょうか。そういう意味では特異な発展を遂げている(かもしれない)彼の国についても、この切り口で読んでみたいなと思った次第です。そしてグリエルとはなんだったのかを考えたいです……。