松永多佳倫・田沢健一郎『永遠の一球』

 

永遠の一球---甲子園優勝投手のその後

永遠の一球---甲子園優勝投手のその後

 

 ・投手の酷使問題の扱いに揺れる心情

・著者2人、片方はビデオドキュメンタリー的、片方は“神の視点”的

・最終章「大野倫」が書きたかった本なのでは?

 

愛甲猛、土屋正勝、吉岡雄二畠山準正田樹、石田文樹、大野倫(敬称略)と、高校野球の聖地・甲子園で優勝を果たしプロ入りした元投手たちのその後の生き方を追う1冊です。1人に1章を割き、先述の順番で章は並びます。

読んでいていちばんおもしろかったのは、2人の著者の筆の運びの差異だったかもしれません。愛甲さん、吉岡さん、正田さんは田沢氏が、それ以外の4人は松永氏が執筆していおり、その書き分けはあとがきに記されています。読み始める段階で「この手の本で共著ってどうやってるんだろう?」とまえがき・あとがきに最初に目を通しておきました。一発で覚えられるわけではないので、章を読み進めるごとに「これはどっちが書いてるんだっけ?」とあとがきをめくって確認すると、だいたい当たります。それくらい2人の著者の書き方が違う。

田沢氏のほうは、取材を進める自分が主体となったテキストが多いと感じます。愛甲さんの章では、彼のスキャンダルを含めたイメージを踏まえて、取材の申し込みをするにあたり、「取材はしたいが、取材の申し込みは憂鬱だった」と記す。そしてどうにか連絡を取ってみた愛甲さんの礼儀正しさ、取材してみての良くも悪くも“真っ直ぐ”さにおもしろみを感じていく過程を、彼が語る高校時代の話やプロに入ってからのエピソード、あるいは引退後の厄介事という事実に交えて描いてゆきます。吉岡さんの章でも、メキシカンリーグに在籍する彼のもとを尋ねて取材をしている様子を、メキシコの風景と田沢氏が推し量る吉岡さんの心情を重ねあわせるようにして描き出すのです。そうした筆運びは視覚的で、読んでいる身にもメキシコの乾いた田舎町に立つ吉岡選手を想像させます。

一方の松岡氏のほうは、どちらかというといわゆる神の視点的というか、自分自身の感想や感情よりも、当時の甲子園や練習のさまを見てきたかのように、自分自身が体験したかのように書く。どちらが良いかは好き好きですが、僕自身は風景と心情を重ねあわせるような描き方にグッときてしまう(ある意味では安易なドラマティックさに流されてしまう)タチなので、田沢氏の担当章のほうがおもしろいと思いながら読み進めていました。

ところが最終章、というか「特別章」に入ると、不意に様子が変わります。

この章は、沖縄水産高校を91年夏の甲子園で準優勝に導いたエース・大野倫投手の章です。ここは松岡氏の担当です。これまでの松岡氏の執筆部分にも全くなかったわけではないけれど、本章では取材をする「私」が強く打ち出されてきます。

私が大野倫に初めて取材したのは、今から四年前の〇七年七月上旬、ちょうど沖縄県予選の準決勝の試合が行われていた最中である。(中略)そんなことよりももっとショッキングな場面に遭遇したことを今でも忘れはしない。その出来事以来、私の中で「大野倫」という存在が日増しに大きくなっていった。(中略)大野輪と出会ったことが私の人生にとっても大きな転換期となる。そして何もかも捨てて私は沖縄に移住した。本当の大野倫を知りたいがために。(P229) 

これは導入部の最後に記された文です。ここに至るまでに、大野投手というのがどういう存在であったのか、導入部から説明がなされます。91年夏の大会でただひとりのエースとして、肘の骨折を隠して773球を投げ準優勝。夏の大会後にようやく行った手術では、大きく剥離した肘の骨が摘出されたと報じられています。悲劇ーーと言ってしまうといささか綺麗すぎるほど、甲子園につきまとう高校球児、ことにエースピッチャーの酷使という問題の象徴たる人物として、今でも折にふれて挙げられる存在である大野投手。彼のこの出来事によって、ようやく95年に高野連は投手に対する規定を設けます。

そこまでは僕も知っていますので、ふんふんふん、と読み進めていってこの突然の沖縄移住宣言に驚かされます。そしてその後、続きを読むにつけ、もしかしてこの本はもともと、松永氏が大野さんについてのノンフィクションを書きたかったがために成立させたものなのではないか、と思うようになりました(彼だけが準優勝投手で、括りである「甲子園優勝投手」というところからは外れているのもそう思った一因です)。

松永氏は沖縄に住み、たびたび大野さんと会い、当時のチームメイトたちとも酒を酌み交わし、91年の沖水野球部の様子を知ろうとします。なぜ骨折というほどの重症を負いながら、彼が最後まで投げ切ることになったのかーーこれはおそらく高校球児、甲子園に関する取材を重ねてきた松永氏にとって、何十年と議論が繰り返されてきた酷使問題に対するひとつの解を出したかったのではないか。昨年も済美高校・安楽投手をめぐって同様に議論が巻き起こりました(蛇足ですが、この記事がおもしろかったです)。

91年夏の決勝、大阪桐蔭に敗北した試合の映像を大野さんは「負けた試合だから」観たくないという。ピッチャーとしての自分に未練はない、プロでは打者でいったことにも悔いはない、と語る。一方で松永氏は、そういう大野さんと会うたびに引きずる影のようなものを感じている。そして長い期間をかけて松永氏は大野さんから、

「肘を壊していなかったら、 もしかしたらピッチャーとしてプロに行ったかもしれませんね」

そしてこうも言った。

「甲子園で万全の状態で投げたかったですね、一球でいいから」(P257)

ついにこの言葉を引き出します。これは取材者冥利に尽きる成果であっただろうな、と邪推します。大野さんは「甲子園球児・あの人は今」的な企画でメディアに出ている回数が比較的多い方だと思うので、なおのことこうした本音がようやく出てきたことは、この本のハイライトのひとつと思います。

この後、本全体の締めとして松永氏は「なぜ高校球児たちはそこまでして投げるのか?」という命題の考察に直接的に移ってゆきます。そして元沖水監督の「これと決めたピッチャーと、監督は心中したい。どんなに厳しいことを言おうと、勝負師になりきれない。背番号1をあげた子と心中する」という言葉を聞いて、「すべてがわかった」と書く。

ここまで読んで、少し意地悪な気持ちになりました。そりゃその年の夏はそうかもしれない。そのつもりでエースに託すでしょう。エースもその思いがわかるからこそ、最後まで投げきる。そこに異論はありません。でも、彼の夏はその年しかないけれど、監督は来年、また別の子と心中するんでしょう? 僕自身、高校野球を消費し、引いては高校球児の身体をコンテンツとして消費している身として、彼らの投げたい気持ちを尊重することがいいのか、球数制限などをもっと積極的に導入すべきか、まだ答えを持っていない。この監督の言葉にも、やはり答えは見出だせませんでした。